
「一昨年の秋に突然消えた熱が2年経っても戻らない」というタイトルで
いつものようにテキストエディタでとりあえず書き殴って、さらに書き進めたら例によってグダグダすぎてストップ。それから2〜3週間おきに書き直そうとファイルを開くもキーは進まず。
何となくローカルファイルからブログの下書きボックスに入れたけど、ポエムの続きは放置されたまま時間が過ぎて早や年末。
「一昨年の秋に突然消えた熱が今年も戻らなかった」
この3ヶ月のうちに戻る気配も、理由もなかったから当然。2年前の秋に急に冷めたカメラへの熱情は今年も戻らなかったし、減っていた写真への熱量も上がることはなかった。
カメラへの熱はほぼゼロまで雲散霧消したし、おそらく今後も以前のような熱を持ってカメラに接することはなく、一般人が百歩引くくらいの金銭を投入することも多分もう永遠にない。
ただ、写真への熱量は減ったけど、カメラへの熱と違って「一昨年の秋に突然消えた」わけではなく、別に無くなったわけではない。
写真への熱量がこのところ徐々に減っていった理由もハッキリしている。
1つは家庭の事情から、なかなか被写体を撮りに行けなくなったこと。
通ってナンボの被写体が相手なだけに、時間的制約が強くなった昨年来、航空祭の遠征はもちろん、空港、サーキットへの日帰りも思うように行けず、自分でもアカンなぁ、と思いつつも熱量は下がる一方だった。熱量が下がると遠征のコストパフォーマンスを気にしてしまうから余計に、だ。
2つ目は、写真を撮る主目的が好きなスポーツ、動体を収めたいのが理由だったが、ある日サーキットで写真を撮りながら
「写真を撮ることにばかりかまけて、自分は好きな被写体をちゃんと見ているのか?」
ということに気づいて、それからモータースポーツにしても、ヒコーキにしても、写真を撮ることより観ること、音を感じることを優先し始めた。スポーツだけは別の理由からまだ撮り続けているけれど。
年齢を重ね、経年劣化が激しい自分は、若い頃のようにアレもコレも同時に目を配り、全てを掴み取ることが難しくなっている。脳の働きもすっかり鈍くなって、「昔はキレキレだったのに…」と連れ合いにも言われる始末。
撮ること観ること両方を同時に満足できなくなれば、写真を撮ることが優先なのか、好きなものを見たい感じたいのが優先なのか、選ぶのは一つ。
被写体への愛があれば、どちらを選ぶかは迷いがない。
「優先」だから撮ることへの意欲がゼロになったわけではなく、そのうち周囲の環境、条件が変わることがあれば、バランスを見ながら撮ることも増えるかな、と思っている。
ただ、SNS に氾濫するヒコーキやレースの写真が流れで消費されていってるのを見ると、それだけで「飽き」を感じさせられるのも事実だけど。

しかし、減っただけの写真を撮る熱量と違って、カメラへの熱情は2年前の秋に、割と一瞬で消えてしまった。
熱が冷めた、という表現は適切ではなく、我に返った、冷静になった、である。
一般どころかカメラ写真趣味の人から見ても高価なカメラ機材を、何台何本もメーカーを変えても買い続けてきたのは、撮りたい被写体に対して最良の結果を下手くそな自分でも如何に効率よく得られるか、その手段でしかなかった。
わざわざ馬鹿みたいに高い金を出したいとは思わないし、そもそも高価な機材はだいたいクソ重いから、そんな重い機材を持ち歩きたくもない。
同じような人間とデカい機材を並べて SNS に写真を流して自慢する趣味もないし、そもそも他人の機材に干渉もしなければ、自分の機材に干渉されたくもない。
好きなスポーツを、不規則かつ高速に動く被写体を一般人という制約のある中で、如何にヒット率を上げられるか、そのために致し方ない機材であり出費だった。
という言い訳ではあるが、それでも、
「馬鹿みたいな出費をする代わりにミドルクラス以下の機材では得られないものを確実に得られ続けた」
のは事実で、それが自分のカメラ機材史だった。
徐々に年齢を重ね&大病を経て、あるところからは明確に動体視力と反射神経の低下が自覚でき、そこに苦しみ続けているけれど、撮り続ける経験と機材の進化、フラッグシップボディの能力と超望遠単焦点レンズのクオリティが少しならずも助けてくれたし、それもあって撮り続けてこられた。
だからこそ、こう思う。
「機材に助けられて何が悪いねん?」
撮りたい/撮るべき一瞬を撮れてナンボ、なのだから機材の助けがあって何を悪いのか。
「機材より技量を磨け?磨いている間に撮りたい瞬間は次々と通り過ぎていくわ、ボケ」
機材より腕と念仏のように唱える人たちを別に否定はしない。そういう側面もあるのは理解はする。けれど、撮りたい瞬間は待ってくれない。
「金で結果を買っている」
それで結構。得たい結果が得られない出費なら、単なる無駄金である。僻みを念仏に転嫁してる馬鹿と議論する余地はない。
おっと、話は逸れてしまった。

いずれにせよ、今まで大いにカメラ機材に出費し続けてこられたのは、先にも書いたように
「多大な出費をする代わりに、ミドルクラス以下の機材では得られないものを確実に得られ続けたから」
である。もっと正確に書くと、
「多大な出費をする代わりに、ミドルクラス以下の機材では得られないものを確実に得られている、と信じられたから」
である。
EOS-1D シリーズユーザーだった頃からずっとその思いがあったから、お高いボディに、お高いレンズを買い続けてこられた。金銭的には余裕がないから色々と犠牲にしたものがあっても、続ける意欲があった。
だからこそ、その前提が(今回は)消えたと認めざるを得なかった瞬間、過去に費やしてきた金額とともに膨らんできた風船は弾けた。

ミラーレス機が徐々に存在感を増しつつある頃、動体視力と反射神経の低下を感じ始め、いつまでも重い機材を使ってられないな、数キロの機材を90分手持ちで撮り続けるのにも近いうちに限界が来るだろうな、と思っていた。
だからこそ、ニコン F マウントに戻ってきた時は「これが最後のカメラ、最後のレンズ交換式システム」と思っていたし、それに相応しいだけの、マウント変更にかかる膨大な費用を納得できるだけのものを得ることができて幸せだった。
ところが本格的にミラーレス時代になっても未だサッカーを、スポーツを撮り続けていた。だからシステムもミラーレスマウントへ移行してきた。しかし、そこに
「多大な出費をする代わりに、デジタル一眼レフ時代には撮れなかったシーン、得られない結果を得られている」
という思いは一向に出てなかった。常に疑問と、もどかしさと、試行錯誤の連続。
最初の1年は自分の使いこなしが足りないのだと思っていた。2年目もまだまだ、と思っていた。
レンズが旧来のデジタル一眼レフ時代のものだから足りてないのかも、力を引き出せていないのかも、と思っていたから、何本もレンズを買った、入れ替えた。
けれど 2年経っても、自分が主ターゲットとする被写体において、「デジタル一眼レフ時代では得られないものを投資した金額に見合うほど得られている」と信じられることは到底なかった。
自分の技量の問題だったとしても、その自分の技量で従来は投資した分に見合う満足、得られた結果のステップアップが得られていた。けれど、現状はない。全くないわけではないが、投資した金額に見合うかというと、いささか遠い。
そして様々な状況を判断していくと、デジタル一眼レフ時代と違ってこのメーカーの今のシステムは、そしてこのメーカーの今の方向性は、自分が主ターゲットとするカテゴリーに向いていない、ライバルメーカーと比べて向こうとしていないのではないか。
発売日に手に入れてからアレコレと試行錯誤し、他メーカーのライバルカメラを試し撮りさせてもらったりしてきた中で、薄々感じていたけど認めたくなかったものを 2年前の涼しくなり始めたある日、突然認めることができたことで、何かのガラスがパリンと割れて、心の中の空気が入れ替わった。

過去に膨大な出費が馬鹿だったとは思わないし、楽しい思いも、嬉しい思いも、いっぱいあったから後悔はほとんど無い。さすがに、全くないとは言えないけれど😓
ただ、カメラへの熱は「今回のシステムに多大な金額を投資した割には満足できなかった」ことを認めた時点で、いったん雲散霧消した。
カメラは単に写真を撮るための道具
として見ているだけに、投資した金額に見合うリターンは満足度に直結する。
写真を撮るための道具だから単なるスペックだけでなく、より快適スムースに、より撮影に高揚感を得られる道具であれば良いし、重要。それも踏まえての話。
もちろん今のカメラが従来より良い点は幾らでもある。あるけれど、自分が撮りたい被写体に対して新しい時代のカメラへ望んだこと、スペックから期待したことは実現されたと言い難い。ライバルメーカーと比べると特に。
とはいえ、
ものであり(by 首都高 SPL @楠みちはる)、隣の芝生は青く見えるものだから、そういう偏りは十分にあり得る。
それでも同じメーカーの、同じフラッグシップ機でも、デジタル一眼レフで最後に使っていた機材/システムが、その時点で全く不満のない、「これでダメなら全て自分のせい」と言い切れたほどの信頼と満足があったのに比べると、今は満足度、信頼度に雲泥の差はある。
「多大な金額を投資した割には満足できなかった」今のボディの後継機もそろそろ噂されているが、今のところ興味すら湧かない。そもそもメーカーの言葉が信用できないレベルにあるから、如何ともし難い。
(ライバルメーカーの新しいカメラ、レンズにはいつも興味持って見ているけれど、乗り換えるには足りないものがある(必要なレンズがない)から現状見ているだけ、見ているしかない、である)
何度かのファームウェア・アップデート内容は巷では散々持て囃されているが、私が撮りたい被写体において本質的な性能、困った癖は大差ないレベルなので、私は何も評価していない。それも「次」に心が動かない理由である。
そして「熱」がなくなったから以前のように文句を言う気も無くなった。今あるものを、ただ使っている感じである。
でもまぁ考えてみれば、「今あるものを使う」と言うのは正しい趣味のあり方、真っ当な趣味のあり方であろうとは思う。以前の限りあるリソースの大半を注ぎ込んででも結果を最大限得るやり方よりは、常識的である。

とマイナステンションのことを書き連ねてきたが、カメラへの熱は皆無になって、写真への熱量も下がったけれど、だからと言って撮る時にひたすら惰性で撮ってるわけでもない。そういう時がないわけでもないが、
惰性で撮ってしまいがちな被写体は、基本的にもう撮らないことにした。
惰性では撮らない被写体だけを撮ることにしている/したい。
そういうスタンスになりつつある。この前のガンバ大阪の今シーズン最終戦でも、少し前に思いついた新しい設定を試したりもした。「一脚が使える環境なら良さげだが手持ちには向かないなぁ」という結論だったけど、撮る意欲のある被写体に対しては、未だ試行錯誤はし続ける。
いくら好きな被写体だからといって惰性で撮るくらいなら、しっかり自分の目で見て、写真で記録するより自分の脳みそに記憶しておきたい。今後はそうありたいと思っている。
なんてことを 2024年が暮れゆく中でのポエムとして、記録しておく。
私の場合、舌の根が乾かぬうちに違うことを言ってるかもしれないからね。
通ってナンボの被写体が相手なだけに、時間的制約が強くなった昨年来、航空祭の遠征はもちろん、空港、サーキットへの日帰りも思うように行けず、自分でもアカンなぁ、と思いつつも熱量は下がる一方だった。熱量が下がると遠征のコストパフォーマンスを気にしてしまうから余計に、だ。
2つ目は、写真を撮る主目的が好きなスポーツ、動体を収めたいのが理由だったが、ある日サーキットで写真を撮りながら
「写真を撮ることにばかりかまけて、自分は好きな被写体をちゃんと見ているのか?」
ということに気づいて、それからモータースポーツにしても、ヒコーキにしても、写真を撮ることより観ること、音を感じることを優先し始めた。スポーツだけは別の理由からまだ撮り続けているけれど。
年齢を重ね、経年劣化が激しい自分は、若い頃のようにアレもコレも同時に目を配り、全てを掴み取ることが難しくなっている。脳の働きもすっかり鈍くなって、「昔はキレキレだったのに…」と連れ合いにも言われる始末。
撮ること観ること両方を同時に満足できなくなれば、写真を撮ることが優先なのか、好きなものを見たい感じたいのが優先なのか、選ぶのは一つ。
被写体への愛があれば、どちらを選ぶかは迷いがない。
「優先」だから撮ることへの意欲がゼロになったわけではなく、そのうち周囲の環境、条件が変わることがあれば、バランスを見ながら撮ることも増えるかな、と思っている。
ただ、SNS に氾濫するヒコーキやレースの写真が流れで消費されていってるのを見ると、それだけで「飽き」を感じさせられるのも事実だけど。

しかし、減っただけの写真を撮る熱量と違って、カメラへの熱情は2年前の秋に、割と一瞬で消えてしまった。
熱が冷めた、という表現は適切ではなく、我に返った、冷静になった、である。
一般どころかカメラ写真趣味の人から見ても高価なカメラ機材を、何台何本もメーカーを変えても買い続けてきたのは、撮りたい被写体に対して最良の結果を下手くそな自分でも如何に効率よく得られるか、その手段でしかなかった。
わざわざ馬鹿みたいに高い金を出したいとは思わないし、そもそも高価な機材はだいたいクソ重いから、そんな重い機材を持ち歩きたくもない。
同じような人間とデカい機材を並べて SNS に写真を流して自慢する趣味もないし、そもそも他人の機材に干渉もしなければ、自分の機材に干渉されたくもない。
好きなスポーツを、不規則かつ高速に動く被写体を一般人という制約のある中で、如何にヒット率を上げられるか、そのために致し方ない機材であり出費だった。
という言い訳ではあるが、それでも、
「馬鹿みたいな出費をする代わりにミドルクラス以下の機材では得られないものを確実に得られ続けた」
のは事実で、それが自分のカメラ機材史だった。
徐々に年齢を重ね&大病を経て、あるところからは明確に動体視力と反射神経の低下が自覚でき、そこに苦しみ続けているけれど、撮り続ける経験と機材の進化、フラッグシップボディの能力と超望遠単焦点レンズのクオリティが少しならずも助けてくれたし、それもあって撮り続けてこられた。
だからこそ、こう思う。
「機材に助けられて何が悪いねん?」
撮りたい/撮るべき一瞬を撮れてナンボ、なのだから機材の助けがあって何を悪いのか。
「機材より技量を磨け?磨いている間に撮りたい瞬間は次々と通り過ぎていくわ、ボケ」
機材より腕と念仏のように唱える人たちを別に否定はしない。そういう側面もあるのは理解はする。けれど、撮りたい瞬間は待ってくれない。
「金で結果を買っている」
それで結構。得たい結果が得られない出費なら、単なる無駄金である。僻みを念仏に転嫁してる馬鹿と議論する余地はない。
おっと、話は逸れてしまった。

いずれにせよ、今まで大いにカメラ機材に出費し続けてこられたのは、先にも書いたように
「多大な出費をする代わりに、ミドルクラス以下の機材では得られないものを確実に得られ続けたから」
である。もっと正確に書くと、
「多大な出費をする代わりに、ミドルクラス以下の機材では得られないものを確実に得られている、と信じられたから」
である。
EOS-1D シリーズユーザーだった頃からずっとその思いがあったから、お高いボディに、お高いレンズを買い続けてこられた。金銭的には余裕がないから色々と犠牲にしたものがあっても、続ける意欲があった。
だからこそ、その前提が(今回は)消えたと認めざるを得なかった瞬間、過去に費やしてきた金額とともに膨らんできた風船は弾けた。

ミラーレス機が徐々に存在感を増しつつある頃、動体視力と反射神経の低下を感じ始め、いつまでも重い機材を使ってられないな、数キロの機材を90分手持ちで撮り続けるのにも近いうちに限界が来るだろうな、と思っていた。
だからこそ、ニコン F マウントに戻ってきた時は「これが最後のカメラ、最後のレンズ交換式システム」と思っていたし、それに相応しいだけの、マウント変更にかかる膨大な費用を納得できるだけのものを得ることができて幸せだった。
ところが本格的にミラーレス時代になっても未だサッカーを、スポーツを撮り続けていた。だからシステムもミラーレスマウントへ移行してきた。しかし、そこに
「多大な出費をする代わりに、デジタル一眼レフ時代には撮れなかったシーン、得られない結果を得られている」
という思いは一向に出てなかった。常に疑問と、もどかしさと、試行錯誤の連続。
最初の1年は自分の使いこなしが足りないのだと思っていた。2年目もまだまだ、と思っていた。
レンズが旧来のデジタル一眼レフ時代のものだから足りてないのかも、力を引き出せていないのかも、と思っていたから、何本もレンズを買った、入れ替えた。
けれど 2年経っても、自分が主ターゲットとする被写体において、「デジタル一眼レフ時代では得られないものを投資した金額に見合うほど得られている」と信じられることは到底なかった。
自分の技量の問題だったとしても、その自分の技量で従来は投資した分に見合う満足、得られた結果のステップアップが得られていた。けれど、現状はない。全くないわけではないが、投資した金額に見合うかというと、いささか遠い。
そして様々な状況を判断していくと、デジタル一眼レフ時代と違ってこのメーカーの今のシステムは、そしてこのメーカーの今の方向性は、自分が主ターゲットとするカテゴリーに向いていない、ライバルメーカーと比べて向こうとしていないのではないか。
発売日に手に入れてからアレコレと試行錯誤し、他メーカーのライバルカメラを試し撮りさせてもらったりしてきた中で、薄々感じていたけど認めたくなかったものを 2年前の涼しくなり始めたある日、突然認めることができたことで、何かのガラスがパリンと割れて、心の中の空気が入れ替わった。

過去に膨大な出費が馬鹿だったとは思わないし、楽しい思いも、嬉しい思いも、いっぱいあったから後悔はほとんど無い。さすがに、全くないとは言えないけれど😓
ただ、カメラへの熱は「今回のシステムに多大な金額を投資した割には満足できなかった」ことを認めた時点で、いったん雲散霧消した。
カメラは単に写真を撮るための道具
として見ているだけに、投資した金額に見合うリターンは満足度に直結する。
写真を撮るための道具だから単なるスペックだけでなく、より快適スムースに、より撮影に高揚感を得られる道具であれば良いし、重要。それも踏まえての話。
もちろん今のカメラが従来より良い点は幾らでもある。あるけれど、自分が撮りたい被写体に対して新しい時代のカメラへ望んだこと、スペックから期待したことは実現されたと言い難い。ライバルメーカーと比べると特に。
とはいえ、
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ものであり(by 首都高 SPL @楠みちはる)、隣の芝生は青く見えるものだから、そういう偏りは十分にあり得る。
それでも同じメーカーの、同じフラッグシップ機でも、デジタル一眼レフで最後に使っていた機材/システムが、その時点で全く不満のない、「これでダメなら全て自分のせい」と言い切れたほどの信頼と満足があったのに比べると、今は満足度、信頼度に雲泥の差はある。
「多大な金額を投資した割には満足できなかった」今のボディの後継機もそろそろ噂されているが、今のところ興味すら湧かない。そもそもメーカーの言葉が信用できないレベルにあるから、如何ともし難い。
(ライバルメーカーの新しいカメラ、レンズにはいつも興味持って見ているけれど、乗り換えるには足りないものがある(必要なレンズがない)から現状見ているだけ、見ているしかない、である)
何度かのファームウェア・アップデート内容は巷では散々持て囃されているが、私が撮りたい被写体において本質的な性能、困った癖は大差ないレベルなので、私は何も評価していない。それも「次」に心が動かない理由である。
そして「熱」がなくなったから以前のように文句を言う気も無くなった。今あるものを、ただ使っている感じである。
でもまぁ考えてみれば、「今あるものを使う」と言うのは正しい趣味のあり方、真っ当な趣味のあり方であろうとは思う。以前の限りあるリソースの大半を注ぎ込んででも結果を最大限得るやり方よりは、常識的である。

とマイナステンションのことを書き連ねてきたが、カメラへの熱は皆無になって、写真への熱量も下がったけれど、だからと言って撮る時にひたすら惰性で撮ってるわけでもない。そういう時がないわけでもないが、
惰性で撮ってしまいがちな被写体は、基本的にもう撮らないことにした。
惰性では撮らない被写体だけを撮ることにしている/したい。
そういうスタンスになりつつある。この前のガンバ大阪の今シーズン最終戦でも、少し前に思いついた新しい設定を試したりもした。「一脚が使える環境なら良さげだが手持ちには向かないなぁ」という結論だったけど、撮る意欲のある被写体に対しては、未だ試行錯誤はし続ける。
いくら好きな被写体だからといって惰性で撮るくらいなら、しっかり自分の目で見て、写真で記録するより自分の脳みそに記憶しておきたい。今後はそうありたいと思っている。
なんてことを 2024年が暮れゆく中でのポエムとして、記録しておく。
私の場合、舌の根が乾かぬうちに違うことを言ってるかもしれないからね。